せっかくですので、「阿波から奈良へ何故遷都されたのか」、その理由の考察を新刊本で書かせて頂いておりますのでご一読頂ければ幸甚に存じます。 「古代史入門」と同じくAmazonから電子書籍と印刷媒体で「甦る皇都阿波(ヤマト)への旅」として2月11日の建国記念の日に発売を致しました。 コンセプトは、阿波の先覚岩利大閑(いわりたいかん)氏の「道は阿波より始まる」(3冊本)の読みにくい内容を ① 一般読者にも理解しやすいように分かりやすく解説をするとともに、 ② 全国の方々が読まれて「これが阿波であるなら是非徳島を訪れて旧跡の地を回って見たい」と感じて頂けるよう、50のテーマを設けて古事記の世界を解説している阿波古代史の案内本となっています。 別の言い方をさせていたきますと、古事記の神々はすべて歴史上実在の神々として阿波におられ、神々をご祭神とする神社も阿波に鎮座されていて古墳もあります。にわかには信じがたいと思われるでしょうが、是非新刊本をご一読いただければ、通説諸学者の述べられていることの矛盾がよくご理解いただけるものと思います。 なお、阿波から奈良への遷都(平城遷都)の考察もさせていただいておりますので、新刊本「甦る皇都阿波(ヤマト)への旅」テーマ4(20頁~)、同21(82頁~)、22(86頁~)、23(90頁~)、24(96頁~)を合わせて読み頂ければその全貌の一端がご理解頂けるのではないかと思います。以上宜しくお願い致します。
めちゃめちゃ感動した!
それはそれは⁉️
有難いコメント誠に有難うございます❗️
皆様が固定観念にとらわれずに日本書紀の壬申の乱の記述をお読み頂ければ、滋賀の「大津」と奈良の「宮滝」との間のことではなく、阿波鳴門の「大津」と三好市三野町「加茂野宮」との間のことであるとご理解いただけるものと思います。
感謝❗️です。
壬申の乱の通説の舞台が
距離的に考えにくいのはよく分かりました!
ありがとうございます。
先日熊野から奈良まで車で通ったのですが
神武天皇が本当にこんな険しい山深いを歩いて山越えして飛鳥まで行ったのか不思議に感じておりました。
天武天皇までは阿波に天皇にいたということなら
神武天皇は熊野から山越えして難波の長髄彦を征圧したのも
実際の舞台は阿波ということでしょうか?
こう言うのが家で見れるなんて良い時代。
忍者の移動速度だなぁ。
前々から思っていたのだが我が家の系図を見ていて気になってはいたのですが、系図と戦災で焼け残っていた過去帳を照らし合わせてみると、私の祖父が明治に系図を買ってきたのかと思っていましたが、江戸以降は系図と過去帳があっていました。壬申の乱と時に大友皇子側について敗北し、大友皇子を祈願して没落した寺を立て直したとありました。松山市の今の久谷町の南の山は大友山(地元ではおおどさんと呼んでいる)がありますがこれは大友皇子の由来の名かも知れないと思いました。まあ壬申の乱の頃は額田王も伊予で「にぎたづに船乗りせんと月待てば...」と和歌を詠んでいますし関係があったかも知れません。
阿波が伊の国、予が伊豫だとすれば、先生の説明にもあるように壬申の乱が阿波で起こった事なら伊予から参戦することも可能だと思います。
先祖の戸籍と土地改良区の地図で馬蹄形の光明寺池を見つけ、その近くに墓地を見つけました。一応系図に書かれていたことが確かめられたと思っています。
写真等は私のブログに載せております。
2016.10.24
plaza.rakuten.co.jp/rnabe555/diary/201610240000/
なかなか興味深いお話ですね。有難うございましたm(_ _)m
毎年全国各地に出掛けて検証しています。年を考えて遠くから押さえていっていますが、また愛媛にも出掛けて調査をしてみたいと考えています。感謝致します!
参考:
阿波千年物語(33)壬申の乱-実の舞台は阿波だった!!持統天皇の波乱の生涯
ruclips.net/video/2CKRzS2TbNg/видео.html
2023/06/09
学生時、「ハイはい奈良やろ」っとサラッと流していましたが、今 地図を見ながらだと笑劇過ぎな経路
阿波説、おもしろいあり得る経路ですね。
コメント有難うございました!お気付きいただき大変嬉しく思います。固定観念から離れて素直に戦闘経路や戦いの舞台を追えば奈良を中心とする畿内地方ではあり得ず阿波であることがご理解いただけるものと思っております。後編では戦いの舞台「大野」、「山崎(前)」、「粟津」等についても畿内と比較しながら説明をさせていただいておりますので、宜しかったらご視聴下さいませ。また力が湧いてまいりました。感謝ですm(_ _)m
尾開も伊勢もほんと❕☝️ですよねぇ‼️大野寺~王地~沖~天下山、何の無理の無い‼️と言うか((笑))真実だから当然ですよね‼️藤井さん❗詳しいご説明ありがと😉👍️🎶うございました!👍️聴きやすかったです(^-^)/
多くのコメントを頂き、誠に有難うございます❗️
感謝申し上げます🙇
暫くしたら後編も公開させていただきますので、またご意見を頂けると有り難いです。
今後ともご注目のほど宜しくお願い致しますm(_ _)m
ありがとうございます。前編・後編拝見し、あまりにものショックに開いた口が塞がらず、Amazonでペーパーバック版「古代史入門」を購入させていただいたところです。
もし可能であれば、ひとつ質問させていただけませんでしょうか。
ここまでして不比等が阿波を隠す真の理由は、何でしょうか。邪馬台国が漢の属国であったことを隠すためでしょうか。
どうぞよろしくお願いいたします。
コメントを有難うございます。「不比等が阿波を隠す真の理由は何か」とのお問合せでございます。
お買い上げ頂いたAmazonペーパーバック版「古代史入門」の247~248頁、出来ましたら238~248頁をお読み頂ければご理解頂けると思いますが、このRUclipsをご覧頂いている皆様にも知って頂きたく核心部分だけ申し上げますと、藤原不比等の父藤原鎌足がもともと中臣鎌足であったところ、死の床で天智天皇に願い出てわざわざ「藤原」の姓を賜ったのは中臣という姓を棄てたかったからであるとみています。
なぜなら中臣鎌足はあの神武天皇に弓を引いた「登美の那賀須泥比古」(トミノナガスネヒコ)の末裔だからです。状況証拠としてナガスネヒコの本願地の鳴門市大麻町萩原から藍住町にかけて「中富」や類似の地名が幾つも残っており、「中臣大鳥神社」(消滅)が2社鎮座していたことも分かっています。ナガスネヒコは死して逆賊として本願地の阿波ではなく当時の辺境の地奈良のホケノ山古墳で葬られたとみています。(同古墳に関する石野博信氏のコメント参照:「古代史入門」14頁新聞記事最後)
要するに、鎌足や不比等にとって阿波は先祖が天皇家に弓を引いた地であり、他氏族から常に後ろ指をさされていたので奈良へ遷って先祖の痕跡を消し去りたかったんではないかと考えているのです。なお、「古代史入門」の7、9~10、40~41頁も併せてお読み頂ければこの辺りの事情・背景がよくご理解いただけるものと思います。(鳴門市大麻町萩原の「萩原1号・2号墓」(日本最古の前方後円墳)はナガスネヒコの親や祖父の世代の一族の墓であると思われます。)
少し長くなりましたが、今後ともご注目頂き阿波にご関心を持って頂ければ望外の喜びです。
せっかくですので、「阿波から奈良へ何故遷都されたのか」、その理由の考察を新刊本で書かせて頂いておりますのでご一読頂ければ幸甚に存じます。
「古代史入門」と同じくAmazonから電子書籍と印刷媒体で「甦る皇都阿波(ヤマト)への旅」として2月11日の建国記念の日に発売を致しました。
コンセプトは、阿波の先覚岩利大閑(いわりたいかん)氏の「道は阿波より始まる」(3冊本)の読みにくい内容を
① 一般読者にも理解しやすいように分かりやすく解説をするとともに、
② 全国の方々が読まれて「これが阿波であるなら是非徳島を訪れて旧跡の地を回って見たい」と感じて頂けるよう、50のテーマを設けて古事記の世界を解説している阿波古代史の案内本となっています。
別の言い方をさせていたきますと、古事記の神々はすべて歴史上実在の神々として阿波におられ、神々をご祭神とする神社も阿波に鎮座されていて古墳もあります。にわかには信じがたいと思われるでしょうが、是非新刊本をご一読いただければ、通説諸学者の述べられていることの矛盾がよくご理解いただけるものと思います。
なお、阿波から奈良への遷都(平城遷都)の考察もさせていただいておりますので、新刊本「甦る皇都阿波(ヤマト)への旅」テーマ4(20頁~)、同21(82頁~)、22(86頁~)、23(90頁~)、24(96頁~)を合わせて読み頂ければその全貌の一端がご理解頂けるのではないかと思います。以上宜しくお願い致します。
@@藤井栄-t6s
ありがとうございます。早速「甦る皇都阿波(ヤマト)への旅」も購入させていただきました。「道は阿波より始まる」の高額中古本を購入しようか迷っていたところですので、非常に楽しみです。
しかし、中臣氏がナガスネヒコの末裔とは驚愕です。私はアメノコヤネの末裔で天孫系だと定説を信じていました。まずは、勉強させていただきます。
東京に住んでいる私のような人が、藤井先生の講義などを聴く方法はRUclipsだけでしょうか。有料でも結構ですので、ぜひ拝聴させていただきたいです。よろしくお願いいたします。
@user-uw6kp9uk6m
ありがとうございます。早速「甦る皇都阿波(ヤマト)への旅」も購入させていただきました。「道は阿波より始まる」の高額中古本を購入しようか迷っていたところですので、非常に楽しみです。
しかし、中臣氏がナガスネヒコの末裔とは驚愕です。私はアメノコヤネの末裔で天孫系だと定説を信じていました。まずは、勉強させていただきます。
東京に住んでいる私のような人が、藤井先生の講義などを聴く方法はRUclipsだけでしょうか。有料でも結構ですので、ぜひ拝聴させていただきたいです。よろしくお願いいたします
@user-uw6kp9uk6m
ありがとうございます。早速「甦る皇都阿波(ヤマト)への旅」も購入させていただきました。「道は阿波より始まる」の高額中古本を購入しようか迷っていたところですので、非常に楽しみです。
しかし、中臣氏がナガスネヒコの末裔とは驚愕です。私はアメノコヤネの末裔で天孫系だと定説を信じていました。まずは、勉強させていただきます。
東京に住んでいる私のような人が、藤井先生の講義などを聴く方法はRUclipsだけでしょうか。有料でも結構ですので、ぜひ拝聴させていただきたいです。よろしくお願いいたします
明日香〜芋峠〜吉野宮の道のり、吉野川の情景、宮滝の位置をグーグルマップの航空写真で見ましたが、芋峠は県道?15号で超えますが、15号は明日香辺りから山道のようになり、暫く行くと厳しいつづら折りの山岳道です。自動車道路がこんな山岳道ですから、徒歩で超えるにはかなりな相当な時間がかかることが分かります。
奈良の吉野川は狭小のいわだらけで曲がりくねり競争などできませんね。
宮滝は吉野川の北にあり渡るに与いしません。
私は中国地方出身で故郷を出てからは京都市に25年間住んでいましたから滋賀京都奈良の地理地形地名は頭に入っています。
地図を見るのが好きでしたから、阿波の地名と神社名が奈良京都に酷似してるなぁなどと理由もわからず見ていました。また、吉野川が阿波と奈良にあるのも不思議だし、滋賀の大津が鳴門市にもある、不思議でいっぱいでした。
最近、You Tubeで邪馬台国は阿波だった、のRUclipsrさん達の動画を観ているうちに、阿波が邪馬台国連合国の首都だったんだと納得しました。だから、魏の使者は筑紫を難無く通過できたんですね。
何らかの事象変化で明日香地方に遷都し、阿波の地名や神社と同じにしたんだなぁと確信した次第です。
大変勉強させていただきました。
ありがとうございます。
ご丁寧な長文のコメント、ご感想をいただき誠に有難うございましたm(_ _)m
京都に長くお住まいで近畿の地理情景が頭に入っておられるようですから私の話はすんなりとご理解いただけるかと存じます。
大津宮・吉野宮(粟:加茂野宮)・吉野川・大野寺・粟津・山崎(前)(を始め殆ど全ての戦いの舞台)・長谷寺など奈良近畿と同じものが阿波にこれだけ見事に揃っているのですが通説諸学者の目にはそれが入っていない、いや入れようとはしないのです。それは自分たちが今まで積み上げてきた見方・土台が崩れるのを恐れているからですね。歴史の真実の舞台を明らかにするという学者の良心があるのであれば是非とも私の動画をご覧頂いて論評をして頂きたく思います。
そういう姿勢がなければ、壬申の乱の舞台だけではなく歴史の多くが矛盾した諸学者の解釈のままになり、いつまで経っても固定観念による矛盾だらけの歴史観に終始することになって古代日本の神の姿は明らかにはなりません。
今回の動画にご注目いただけましたら、またお時間をいただいて後編を公開させていただぃますので、どうかご期待のほどよろしくお願い致します。
主たる内容は、戦いのキーワード「大野寺」や戦い最後の舞台「山(前)崎」、「粟津」を始め「大津宮」など、奈良ではあり得ないことを裏付ける万葉歌を取り上げてご説明をさせていただいております。
なお、ご興味をお持ちでしたら私が昨年Amazonから出版した「古代史入門」をご覧頂ければもっと多くのことがご理解頂けるのではないかと思いますので宜しくお願い致します。
(Google検索やAmazonで「古代史入門」と入力していただければ表示されます。電子書籍もございます。)
またGoogle検索で「古代史塾」と入力していただければ私のホームページで写真解説、新着情報、ブログ、RUclips動画配信も見えますので宜しかったら一度覗いてみてやって下さいませ。
説得力あるコメントヲ有難うございましたm(_ _)m
今後とも精進させていただきます。以上
土成で済んでいます。鴨島、市場、の地名は身近な存在です。
三野町は、あまりなじみがありませんが、土成からゆくと、池田に近く山間なのに、
広々した扇状地があり、違和感を感じるほど、広い、と思いました。
あそこなら、生活の拠点となりうる場所ではないでしょうか。
具体的で説得力あるコメントをありがとうございます。仰るとおり現地をご覧いただければなるほどここなら!とご納得いただけるのではないかと思います。
地質学者の話によれば、阿波の「吉野宮」(よしののみや:三好市三野町加茂野宮)は県内有数の見事な扇状地です。
また、県央の阿讃山脈の山裾の広大な台地は、「大野寺」のある阿波市市場町の「奈良坂」(ならさか:奈良の地名の元地)辺りから東の板野町にまで及んでおり、「平山」(ひらやま)と呼ばれる広大な台地状の地形で、「平群」(へぐり:これまた奈良の平群の元地)や「平城」(なら)の地名もこの連なる台地状の平地=「平山」の表現なのです。今も板野町内では「大寺字平山」、「吹田字平山」、「犬伏字平山」、「羅漢字平山」などの「平山」の地名が残っており、現在では「ひらやま」と呼んでいますが、古くは「ならやま」と呼ばれたことが万葉集からも伺うことが出来ます。(万葉集巻一 29人麻呂の歌)
「奈良」本来の意味も、大河吉野川を望む「水うるわしき豊かな台地」を指し、水の景色が美しいゆえに「奈良」の地名が起こったのです。今も県内美馬市穴吹町穴吹、吉野川市川島町児島、阿波市市場町尾開(おばり)には「奈良」・「奈良坂」の地名があります。
現在の奈良地方はこのような情景とは違う地域です。このように奈良地方の殆どの地名は、「奈良」同様平城遷都後に阿波から持って行ったもので古事記の古地名も現在の奈良地方とは関係がないのです。奈良と阿波の地名にもなおご注目いただければと思います。(年内刊行予定の新刊本でも説明)
長い地名の説明になりました。いただいたコメントを励みに今後とも精進いたしますのでご注目のほど宜しくお願い致します。以上
80kmを平地の場合時速4kmで20時間。山あり谷ありなら倍かかるから40時間。1日では無理。
コメントを頂き有難うございました。
おっしゃるとおりかと思います。
諸学者の方々には日本書記の記述を固定観念無しに見て頂きたいと思っています。
暫くお時間を頂戴し、また後編も公開させていただきますので、ご注目のほど宜しくお願い致します。
有難うございましたm(_ _)m
ANYAチャンネルさんの言ってるのはこれかな?
コメント有難うございます❗️
以前ANYAチャンネルさんが私の動画をご覧になって、「良かったらリンクを張らせて頂きます。」とのことでした。
また壬申の乱の後編を公開させていただきますので、ご注目いただければ有り難いです。
精進致しますので宜しくお願い致します。m(_ _)m
梅原さんの後継者と言っては失礼かな。それ以上の方かもしれませんね。とにかく、論理合理性を追求するという哲学的態度は従来の歴史学者には欠如していたように思います。新時代を切り開いて下さい。
過分なコメントを頂きビックリしております。
私は学生時代から梅原猛さんの「地獄の思想」から始まる愛読者です。
氏の人を引き込むあの文章力には感嘆しどうしでした。哲学者として以上に熱き パトスを秘めた詩人ではないかと思っています🙇
暫くお時間を頂戴して後編も公開させていただきますので、どうかご注目のほど宜しくお願い致しますm(_ _)m
感謝✨致します。
あれ?藤井先生ってば以前は天武天皇が「得度」した「得度山灌頂院大野寺」って仰ってませんでした?
得度した得度山だと🤣🤣🤣
やっと「得道山」が正しいと理解できたのですね😆
無茶な事をして乱のあった場所を徳島から奈良に変え日本書紀に記した理由って何なのです?阿波ってそんなに隠さなければならはないほどに恥ずかしい場所なのですか?これは阿波古事記解釈と違って「改竄」って事ですよね?そこを説明しないと似た地名をこじつけしているだけですよ。
景行天皇紀に阿波は畿外(そとつくに)と書いてありますけどそれも改竄ですか?何のために?
景行天皇は実在が怪しい。
何これ、なんかのカルトか?第◯サティアンの修行なんかw
大津宮が鳴門市てwww